第二章 ~長崎の浦上というところ~ (1)
二日に佳子の母子は、何事もなかったように年始にやってきた。数えの十七歳になった圭子をおばさんはうれしそうに後ろから背中を押して先に立て、森村家の玄関に入って来た。
佳子はJ女学校の制服を着ていた。靴は佳子の母親が長崎のヤミ市から買ってきた新しいものを履き、靴下の白色が目立ち女学生らしい雰囲気を漂わせている。
長い黒い髪に、ピンクのリボンが正月らしく華やいでいた。
ヒダが深くついた濃いブルーのスカート、同色のセーラーに身を包み、背筋をしゃんと伸ばした姿は、気品のある顔にマッチして目を見張らせた。
「こりゃ、どうして、どうして」
父がびっくりした声を出し、母も妹も見ほれて眺めていた。
いつも薄汚れた木綿の野良着にモンペ、ババさんが作った草履姿の彼女とは、まったく違った女学生のスマートさに、孝夫は心を奪われて凝視した。
「ババさんは、どうな?」
母がおばさんに心配そうに尋ねている。
「病院の先生に一回往診してもらいましたがもうぴんぴんになって。ババさんは強かですモン」
佳子と同じことを言って笑っている。
「兄ちゃん、友達の遊びに来るとよ。今度浦上に学校の出来たら、一緒に行こうと決めとるとさ、嬉しか!」
ピカ・ドンで幸運にも生き残ったクラスメートの一人が親友で、今もずっと手紙のやり取りを続けているのだという。
傍で聞いていた孝夫の妹の幸代が
「佳子さん、親友の生き残らしてほんとによかったわ。私たちも卒業したばかりだったのに、同級生が沢山なくなったとさ。戦争って悲しかことばっかりね……。あんたの学校は、ピカ・ドンの真下のようなところにあったし……確か……カトリック系だったよね。同級生も浦上の人が多かった筈だから犠牲者も、きっと多かったことでしょう。かわいそうに……」
幸代は鳥肌を立てながらあの日の夜を思い出していた。
女学校を卒業してすぐ、この村の役場に勤めていた。ピカ・ドンの日、役場に隣接する小学校の校庭に臨時の受付が設けられた。
窓ガラスという窓ガラスが粉微塵に割れた教室を掃除して、すべてが救護所に当てられた。
最初はそうでもなかった避難者が四時すぎごろから急増し、それも重症者に変わっていった。
皮膚が
襤褸切れのようにぶら下がり血がこびり付いた人。「水をくれ! 水をくれ!」と、泣き叫ぶ人。それでも辛抱強く尋ねなければならなかった。
「あなたの名前は? あなたは男、それとも女? 住所は? 生年月日は?」
夜がやってきた。
ロの字型の校庭の真ん中の薄暗い机の帳面に、必死に書く彼女の周りから
「助けてくれ!」
「水をくれ!」
「痛いよう!」
地獄の叫喚が渦を巻いていた。
「お名前は? お名前は?」
何度尋ねても声にならないうめき声に、はっと目を上げてみると、頭は焼けて毛はなくどこに口があるのか鼻があるのか頬がパンパンに膨れて
瞼さえ塞がりふらふらと立っていた。
幸代は手が震えてどうしても書くことができなかった。
この人も、その夜のうちに息を引きとった。
何と悲しい夜だったことか。
浦上というのは、昔の浦上村を中心にした一帯のことで、カトリック信者の部落で知られた
本原郷(町)、中野郷(町)、家野郷(町)、ばかりでなく、これらの町を含めた広い地域を指して一般的に言うようになった言葉で長崎港の北に位置する盆地である。
明治のはじめ、一八六八年、浦上では全村民三四一四人が二一の藩に流罪され、江戸時代以上の迫害を受け、六一四人が殉教し、六年目でやっと各藩から釈放されて帰村した。これを四番崩れというのだから三番崩れもあったのである。
浦上天主堂は、このような信者の子孫の厚い信仰の中心であったが、今、無残な姿となっている。
佳子は幸代の話に涙を流して聴いていたが一言も言葉を挟もうとはしなかった。
そして、急に「十時の汽車で、千ちゃんは来るとよ」と、言うと、スカートをひるがえして柿の大樹の下から道へ駆け下りて行った。
しばらくして、少女たちの弾んだ声がしたかと思えば「ただいま!」と、柿の庭に現れていた。
「うわあ! 大きな柿の木!」
親友の女の子は、庭に突っ立って柿の大樹を見上げていたが、早速腕を広げて測り始めた。
「三人分以上あるよ! 佳ちゃん」
生い茂っていた葉は、全部散り果てて枝の間から冬空が見えていた。
それにしても、やはり異様な大きさである。
「日本一じゃないかって評判よ」佳子が誇らしげに言った。
「そうでしょうね。渋柿?」
「ううん、甘ガキよ、そりゃおいしいよ」
「柿も大きいんでしょうね」
「ああ、そうよ! それより、上がったり上がったり」
佳子がヨーロッパの貴婦人風に、しなやかに手を下げ腰をかがめて玄関に招じ入れた。
二人は床の間に据えられたお節料理の前の座布団に座った。
佳子の母がお茶をお盆に載せてきた。
母がまごまごしているうちに「ホラね、かわいかだろ。千住美智子さんよ」と、うれしくてしょうがない顔をして母に紹介した。
美智子さんはJ女学校の制服を着て、物静かな態度で挨拶をすますと、お茶を小さな口に当てて飲んだ。
彼女が体を動かすたびに、胸の校章がキラキラと光った。
幸代やおばさんが、それぞれミカンなどの果物や取り皿などを運んで歓待の準備を始めた。
孝夫は手持ち無沙汰な気分で下駄を引っかけて石垣の上から、野岳の岩などを漠然と眺めながら立っていた。
時々、下の道を通る人に「おめでとうございます」と、挨拶したりしているうちに時間が過ぎて行った。
「兄ちゃん!兄ちゃん!」と、呼ぶ声がする。
「兄ちゃん上がってきてよ、さびしいよ」
よく見ると、佳子と千住さんの二人だけになっている。
みんなは、二人だけが話しやすいだろうと遠慮したとみえる。
「やあ、千住美智子さんですね。さっき聞いていました。僕は森村孝夫です。おめでとう」と、ちょっと気取った調子で言った。千住さんは孝夫の目をまっすぐ見て愛らしくうなずきほほ笑んだ。物静かな態度に人柄がにじみ出て好感の持てる女学生であった。
「千ちゃん、この人から数学ば習いよるとさ」
「よかねえ……私も近かったらなあ」
それからは
堰を切ったように、長崎弁、丸出しで二人は話し始めた。
「大村の仮校舎で授業のあってると聞いたバッテン、ドギャンしゆぅか」
「大村ゴテ、遠い所にゃ行かれんタイね。ここから一時間はかかるバイ」
「そうじゃもんね、吉村さんはN女学校に転校したゲナね」
「へえ、ほんと……浦上に、ほんなコテ学校の再建されるんかなあ」
「兄ちゃんはどぎゃん思う」
「あんたたちには気の毒かバッテン、そりゃ無理じゃなかろうか。二、三年先デン建てられんと思うナ。放射能があの辺には
溜まってるに違いなかけんね。ソギャンところに学校は建てられんタイね」
「他の学校では、数学はドギャンなところば習っているんカな」
「川上先生に会ったけど、私、忘れられとった」
など、ピカ・ドン以来、四カ月も合わなかった二人には話題が尽きなかった。
「佳ちゃん、あんた、なんともなかったわよネ?」
美智子さんが突然、佳子の顔をまじまじと見詰めて言った。
ピカ・ドンのことである。
佳子は彼女の前では、嘘がつけない顔になってじっとした。
「怪我でもしたん?」
「……ううん、火傷したっさ」
「ええっ、どこ、どこによ」
「背中とお腹にちょっと」
「ま、まあ!」
美智子さんは絶句した。
佳子は、口をきゅっと引き締め、庭に眼を泳がせた。
美智子さんは板に挟まれて喘いでいたあの日のことを思い出していた。
美智子さんの家も、窓ガラスなどが割れていくらか傾いたが倒壊しなかったので助かった。
「知らんかった。あんたは自分のことになると何も言わんから」
美智子さんは、引きつるような顔になって独り言のように言った。
「もう大丈夫だよ。痛くも
痒くもないよ。ただの火傷!」
美智子さんはため息をつき、しばらくして「そう」と、呟いた。
そして、考えに沈むように静かな深い目になって、柿の枯れ葉が庭で風にゆらいでいるのをじっと見つめていた。
もう、三時を過ぎた。
佳子の母が「お雑煮ができましたよ」と、言いながらお盆を抱えてきて「さあ、沢山召し上がれ!」と、笑いながら美智子さんに勧めた。
こうして、千住美智子さんは四時の汽車に間に合うように柿の庭から駅に向かった。
プラットホームまで送りに出た佳子は美智子さんの手をしっかり握り「浦上に学校が出来たら、また一緒に行こうね」と、何回も誓い合って別れを告げた。
ところが、孝夫が言ったように放射能を心配して二、三年どころか、何と十四年も経った昭和三四年にJ学校は浦上の元の場所に再建されたのであった。