第二章 ~長崎の浦上というところ~ (2)




 一月一日に天皇の人間宣言があった。
 孝夫は当たり前だと思った。
 天皇の名のもとに何十万、何百万人の人間が死んだことか。
 こんなものがあったからこそ国民はえらい目にあわされたのだ。許せることではないと孝夫は思っていた。

 鳩山一郎の自由党や進歩党そして西尾末広、片山哲らの社会党、解放された徳田球一らの共産党などの政党結成の急な動きが新聞を賑わしている。
 また、全国的な規模で労働組合が結成し始めた。
 昭和二一年を迎えて、マッカーサーのGHQの指令もあって、日本は旧い国から新しい国に脱皮するのを急ぐように騒々しくなってきた。


 父は雑木林に入って現金収入を得る為、炭焼きをして夕方になると木炭や焚き木を担って帰ってきた。
 佳子の母であるおばさんは相変わらず孝夫の母にくっついて畑の加勢などに汗を流している。
 孝夫は白菜や大根、春菊などの野菜、それに小麦の多収穫を目指して本を見ながら改良に一生懸命である。
 化学肥料といったものはまだ出廻っておらず、腐葉土に堆肥(たいひ)など自分でできる肥料を混ぜ合わせ土地をよく耕して元肥にして植え付けた。
 追肥をいつやればよいかなど、孝夫には経験がないので成長していく過程で本を見るという頼りない耕作者である。意欲は十分ながら、はたして改良ができるのか分からなかった。
 佳子は学校の浦上での再開を待ちわびながら夜は孝夫と勉強している。

 二月に食糧緊急措置令が出て、強制供出制度という無理やり米を供出させる命令が出た。米の不足がもうどうにもならないところまで来たのである。
 政府の見込みは大幅に狂ってきていた。
 二十年の米の実収高は十九年と比べて三三・一%減という記録的な減収であった。
 遂に予想通りの七六・九%、二〇四四万石にとどまった。
 今年の食糧難が、いよいよ切実なものとなってきたのである。

 佳子は浦上での開校を待っていたがその連絡はなかった。
 実は殉難した生徒を含めて大村で卒業式があっていた。
 「生きながら焼け死に、あるいは血を吐きながら逝かれたことを思うとすまなくて、すまなくて、たまらないのです。私は、あの子たちに何一つしてあげることができなかったのです」
 校長先生は涙を流し、声を詰まらせて挨拶をしていたのであった。
 校長先生は長崎の生徒のために浦上に再興することを誓っておられたし、心の準備もしておられたのであった。

 食糧の決定的な不足が、ヤミを横行させ、インフレをひどくする原因を作った。
 インフレを抑えるため、新円を作り、古い円と交換する新円切り替えが、金融緊急措置令として出された。しかし、食糧不足から起こったインフレだから留まる筈がなかった。
 物々交換は、ますますひどくなり物価も高騰し食糧不足に喘ぐ国民は、明日への希望を失いかけていた。


 こんな中、孝夫は佳子との勉強がだんだん楽しく(はかど)るようになってきていた。
 昼の農作業にも慣れたせいか、それほど居眠りを二人ともしなくなっていた。

 近頃は七時から始めている。
 途中、孝夫の母がカンコロ(さつま芋を切って干したもの)を蒸して団子にしたものやイチゴ、ときには、小さなオハギなどをお茶と一緒に持ってきて「よう、がんばりよるタイ」と、机にしている卓袱(ちゃぶ)台に乗せ、そばに来て、肥えた大きな体をどっかり据えて、しばらく話をして休憩させてくれる。

 十時になると佳子が本やノートを手提げに詰め込む。
 孝夫はその手提げを自転車のハンドルにぶら下げ、乗らずに押して話しながら送っていく。
 佳子は女らしい気配が少しずつ漂い、ふっくらしてきた頬やうなじ(・・・)に少女には見られないほんのりとした赤味がさし、胸の膨らみが少し大きくなってきていることが野良着の上にも現われ、体の線も柔らかくなってきていた。
 時間を決めているので、佳子の住む岡に曲がる角まで来ると、懐中電灯の光を大きく回して合図する。すると、おばさんが走り出てくるので彼女を渡し、自転車に飛び乗ると南川内谷を一気に走り下って帰宅する。

 美智子さんからの便りでは浦上に学校新築の話が進んでいるらしい。
 佳子は来年は学校に行けると弾んでいたが、誤報と知れると、かわいそうなぐらいしょんぼりと沈んでしまった。



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