第三章 ~青年団の人々と飢餓~ (1)




 孝夫は青年団の会合にはなるべく顔を出した。
 中川さんは相変わらず張り切って司会などを務めていた。
 中川さんも自分の噂は知っていたが彼には彼の自負があった。
 ――京子さんをどうして好きなったのかということから書き始め、決して不幸にしないことを誓った手紙を置いてきたのだ――
 心から愛しているからこそできることだ。
 この田舎は世間が狭く、何かにつけて悪く評判し、くっついたの離れたのと騒ぎ立てるが、そんなことじゃないんだ。俺は本当に彼女が好きなんだ。好きだから夜バイに行ってそのことを伝えたのだ。みろ! 俺の愛が彼女に通じて交際を始めてくれたではないか。
 これが、この田舎の愛の表現のし方であり、ここから交際が始まり結婚へ進む道程になっているのだ。

 その頃、孝夫の目にも、京子の顔や姿に、大人の女の柔らかさや何とも云いにくいが媚のようなものが感じられるようになってきていた。
 会合のあった翌日の夜。
 「兄ちゃん、京子さんたちのこと知ってる?」
 「中川さんのことだろう」
 「兄ちゃんも早耳ね」
 「ハハハハ」
 「二人はほんとに交際していると思う?」
 「していると思うよ」
 彼女は数学の図形の問題と格闘しているように見えたが、身を乗り出してきていた。
 もう勉強どころではなく、眼をキラキラと輝かせ頬をボっと紅色に染めていた。
 柱時計のボンボンという九時を知らせる音を聞くと
 「もう、帰ろうかしらん。身が入らないのよ、兄ちゃん」
 「ハハハハ、うん、いいよ」
 鬱蒼(うっそう)と茂る柿の大樹の陰を離れると、黒雲の塊がときどき流れ去るのが見えた。
 月が雲にかからないときは、昼間のように田んぼを照らし、小川を隔てた丘の栗林の一本一本が浮き出て見え、蛙が間をおいて声をそろえて鳴いていた。
 「じゃ、行こうか」
 二人は佳子の家に行く曲がり角に差し掛かった。
 ところが青井絹子の石段のすぐ手前の暗がりで、二人の男女が抱き合っているのが見えた。
 よく見ると中川さんと京子であった。孝夫と佳子の足が釘付けになった。
 この角は孝夫の首ぐらいの高さの石垣の上が田になっていて、その畦に草が茂り、中川さんたちの方からは見えにくくなっていた。二人からは真直ぐに見えた。
 彼らは夢中になっていて、ふたりが来たのに気付かなかった。
 孝夫たちは挨拶しようにも声をかけられなかった。
 しばらくすると、彼らは左横にある草原に移動した。
 ところが、そこは月に向かって真正面となり、月が黒雲にかからないときは孝夫たちからますますはっきり見えた。孝夫たちは動くわけにもいかず、仕方なくじっとしていた。
 京子の右手は彼の首に、左手は腰に、しっかり巻きつけられていた。
 彼は左手を彼女の背中にまわして抱き、右手は胸の中にさし入れられているようであった。
 蛙が思い出したように、一斉に鳴き始めた。
 佳子がそっと来て孝夫の手を握り締めた。
 今度は中川が京子に体を近づけ、彼女の方に大きく傾けた。
 見ている佳子が孝夫にしがみついた。
 孝夫も興奮して、思わず佳子を抱き低く唸った。
 流れる黒雲が時々月を遮り、明暗を作って彼等の上を通り過ぎた。
 京子のスカートがいつの間にか少したくし上がっている。
 孝夫の下腹が(うず)いていた。
 草原の二人は、長くそうしたままだった。
 孝夫は、目を逸らしたかったが、どうしてもいつの間にか見続けていた。
 スカートがずり上がり、月の光にひどく艶めいて映った。
 佳子の家の下のせせらぎの音がかすかに響き、虫の声がすぐそこで聞こえていた。
 佳子がまた「あ、あ、あ、」と、小さく叫び、孝夫の手を握った。
 この時、月が黒雲にかかり暗くなって見えなくなった。
 「ねぇ、かえろう」
 「うん」
 ふたりが五、六歩、家のほうに歩いた時、月が顔を出した。
 孝夫はあわてて佳子の口を押さえた。佳子の口は興奮のあまり、わなわな震えていた。
 よくは見えなくなっていたが、二人は横向きに寝て愛し合っているように思われた。それを見た佳子が胸に手を押し当てて「あ、あ、どうしよう」と、小さく口走り、頬を真っ赤にしてもう一度孝夫にしがみついた。
 ちょうどこの時、今度は黒雲が月を覆ってしまった。
 もう何も見えなくなり雨がポッリポッリと、頬を撫で始めた。
 二人は闇にまぎれて小川を渡り、佳子の家に着いて深い溜め息をついた。
 「雨が降り出しましたよ。早く孝夫さん帰らんと、濡れますよ」と、おばさんが言ったが孝夫はすぐには動けなかった。

 その翌晩も、雨の中を佳子は勉強にやってきた。彼は胸が高鳴り、まともに目を挙げられなかった。
 彼女も勉強しているように見えたが、時々虚ろな目をして鉛筆を置いていた。帰りを送って行ったが彼女は怒ったように黙り込んで歩いていた。

 その翌晩も彼女はやってきた。
 彼女はノートを出しながら思い切ったように口を開いた。
 「帰りに兄ちゃん見た!」
 「もう、いなかった」
 「あれから、二人はどうしたと思う?」
 「……」
 「あの人たち動物みたい! 不潔だわ!」
 彼女は、汚らわしいものを見たように吐き捨てるように孝夫を睨むようにして言った。
 「……」
 ――恋とは何だろう?愛とは何を言うのだろう?――
 孝夫は黙って考えにふけった。
 男はかけがえのない人として女を愛し、女もまたかけがえのない人として男を愛する?
 これが恋というものなのか? 俺には分からない。
 自分を愛してくれる女性が、将来ほんとに現れるのかどうかさえ、今の僕にはわからない。はっきりしていることは今の僕には愛する女性はいないということだ。
 中川さんは動物にはない羞恥心や見栄などかなぐり捨てて、夜バイに通い京子さんを得て、ああして抱き合いキスしてお互いの愛を確かめ合っているとしたら、それなりに良いのではないか。
 少なくとも心の深奥に、愛の影を追っているのである。
 佳子が言う不潔は当たらない。
 しかし、安易なキスによって、果たして、かけがえのない相手としてそれで愛が確認できたというのだろうか。心の深奥にある愛とは何だろうか、孝夫にはさっぱりわからなかった。
 「それはおかしいと思うよ。動物と同じように見るなんて。少し変だよ」
 「そうかしら、だって……」
 「だってって、何がだってだ」
 「兎に角、不潔なの」
 「だから、何が不潔なんだよ」
 「言えないよ、恥ずかしいもの」
 「変だなあ、よくわからん」
 「中川さんが体を京子さんに傾けたとき見えたんだもの」
 佳子はちょっと息をついで「中川さんは京子さんに触ったりして。いやだよ、あんなの」
 「佳ちゃんが恥かしいと思うことを動物は感じたり考えたりはしないよ。人は感じたり思ったりするから人間なんだ。しかも、彼女はそれを拒否していたわけじゃない。不潔だとは思っていなかった」
 「あんなこと! いや! 絶対いや! あんなの交際じゃない」
 「人間は動物と違って、心の奥の方でほんとに愛されているかどうかって考えるじゃない。『愛してる』と、言葉にしただけでは不確かだから、ああして確認し合っていたのかもしれない」
 「兄ちゃんのは、すぐ難しくなるのね」
 「俺にだって、はっきりしていないんだから。まあ、二人はほんとに愛しているよと、言う意味で抱き合って確認していたんじゃないかなあ」
 「愛は確認するのね、わかったよ、愛は確認するものウフフフ」
 「別に、そうするべきだとは言ってないぞ。口では言ってもほんとにそうかというと、案外そのときの一時的な思いで言っただけで崩れていくことが多いものだ。永遠に真実に愛しているなら、確認なんか必要じゃないさ」
 「また、難しくなった」
 「ほんとに二人が深く愛し永遠の愛を信じ得るならば、二人は心も体も一体化するに相違ない。そんな意味では愛の確認となるだろうよ」
 「さっぱりわからないよ。私がほんとに好きになる、そんな人に出会ったら一体化していいよ。永遠の愛に一歩でも近づきたいもの。兄ちゃん、ネ、母さんに実は話したことがあるのよ。そしたら、人を好きになったら、いろいろわかるだろう、と、言って笑っていたよ」
 佳子は無邪気にそう言い、甘い恋を夢見るように眼を細めて微笑した。
 「それにしても、永遠の愛ってなんだろうね? 恋と愛か?」
 孝夫は経験もなく、遠い目つきをしていた。



<< 第二章 (2)小説表紙第三章 (2)>>
inserted by FC2 system