第一章 ~虚脱から若者へ~ (6)




 村を廻っている(もみ)すり屋の順番がやっと森村家の番になった。
 籾すりは年に一度だから発動機の機械をもった籾すり屋に来てもらうのが安上がりだった。
 この日一日で済ますためには、稲を乾かし、稲こぎを済ませ唐箕(とうみ)にかけ、もう一度よく乾燥させて俵に詰めておく。
 この籾を干すのが大変で、通り雨でも降りそうになれば、どこにいても、その仕事は放り出して、気が狂ったように何十枚もの(むしろ)をたたみ、小屋に入れなければならないし、夕方になると、小屋に入れておかないと、夜露に打たれるのが心配だ。
 佳子が加勢に来ると、話した翌日から毎日母子は夕方遅くまで仕事に精出した。
 籾すり屋がやってくると百姓の忙しさは頂点に達する。
 重い籾の入った俵を小屋から運び出し、どんどん漏斗(じょうご)口に入れなければならない。焼き玉発動機付きだから待ってはくれない。一方の出口からは玄米がひっきりなしに出てくる。
 これを一斗ジョウケに入れて運び、俵にまた詰める。
 「そらきたドッコイ、そらきたドッコイ」
 「はいヤッサ、ほいヤッサ」
 「まにあわんぞ、ソレ、ソレ、ソレ」
 みんなそれぞれ勝手な掛け声をかけ合い昼食まで続く。
 昼食を食べる間もなく作業開始だ。
 「そらきたドッコイ、そらきたドッコイ」
 「はいヤッサ、ほいヤッサ」
 「まにあわんぞ、ソレ、ソレ、ソレ」
 これがほんとの目の回る忙しさだ!

 山の濃い影が今まで畑に落ちていたのに遠く小川を渡って竹林まで伸びている。
 早や、晩秋の冷たい風がそよぎ始めていた。

 発動機の轟音がぴたりと止まった。
 「終わりましたよ」と、籾すり屋が言い終わらぬうちにみんなは、どさっと倒れこみ仰向けになったまま身動き一つできないでいる。
 背中に伝わる秋の涼気を吸った土の冷たさが例え様もなく気持ちがいい。
 もう、死んでもよいほどの疲労が全身を包んでいた。
 そうしている間に、籾すり屋は勝手にトラックに機械を積み込むと、さっさと帰ってしまった。


 孝夫が立ち上がる。さすがに若者だ。
 父が立ち上がる。さすがに親父だ。
 それから「あっあっあっ」と、言いながら腕を天に伸ばして佳子が起き上がる。
 しばらくしたら、母とおばさんが「ハハハハハ」と、笑いながら起き上った。
 みんながそれに合わせて「ハハハハハ」と、笑って、腰を「うんとこどっこいしょ」と、言いながら伸ばした。
 「みんな、あとは明日のことにしょう」と、父が言った。
 佳子が「やった!」と、叫び、宮日祭(クンチ)の真似して踊りだした。
女たちが踊りの手拍子を鳴らしながら足をつましく出し、父が太鼓を打つ真似をして、腕をのばして(ばち)をくるりと回し体を(ひね)って拍手に合わせながら「ドン、ドドン」と、大きな声を出して打ち響かせた。
 百舌鳥(もず)がその声に驚いてキーと、鋭く鳴いて川向うの竹林に飛んで消えた。
 竹林も山の影が夜を忍ばせて薄闇が包みこんでいる。

 女たちは風呂を沸かし夕飯の用意に取り掛かる。男は籾すりの後片付けをする。
 「おじさん! 兄ちゃん! 風呂に入って御飯よ!」佳子が呼びに来た。男たちが風呂に入った後、女たちも次々に入り、さあ! 夕飯だ。夕飯は、疲れていても収穫の喜びに楽しい団欒(だんらん)のひとときとなる。
 「三十五俵も、とれたぞ」
 酒好きな父はもうひっかけている。
 焼け田といわれる谷の田は、長瀬川付近の田が一反八俵取れるのに六俵しか取れないのだ。
 今年、本当は例年より三割少ない我が家の収穫だったのに、酒が一杯入ればそんなことはどうだって良い。採れただけが今年の収穫だ。
 「これで、ゆっくりなれる」
 父が酒を傾けながら独りごちた。
 孝夫や女たちは鯨の入った野菜の煮付けをおかずに、ご飯を何杯もお代わりしていた。


 十月九日に幣原喜重郎内閣が発足していた。
 そして、自作農論者の松村謙三氏が農林大臣に就任した。
 「今度の農林大臣さんは地主から土地ば取り上げて小作人に渡すそうな。それにしても、自作農ば作るちゅうのはどんな事じゃろうナ?孝夫」
 滅多に政治の話をしない父が真剣なまなざしで話しかけた。
 「うん、そうね。うちのような小作人が地主から小作している土地ば買い取るとかもしれんよ」
 「そぎゃんなれば嬉しゅうはあるが八反もの土地じゃとてもじゃなかぞ」
 「全国的なことだから、政府も無理な高い値段ではなかと、思うけど」
 「今年の米も、どうせ、三割は西岡さんに持っていかんばならんしなあ」
 「毎年じゃもんね、それから考えれば安かもんになるかもしれんタイね。これからも西岡さんにやることば考えればね」
 佳子が母親たちの方から膝を孝夫たちの方に向き代えた。
 「今年も!」と、口を尖らせた。
 「そうすると、おじさん!」
 あどけなかった眼が急に呆れたように見開かれ、父の顔を穴のあくほど見詰めて言った。
 「ええっ! と言うことは、兄ちゃん、十一俵もよ! あんまりよ! 西岡さんて、川のそばの西岡さんでしょう。あそこは誰も働いている人いないじゃないの! それでいて、あんなに大きなうちに住めるなんて!」
 孝夫は、江戸時代の六公四民とか五公五民の領主への上納米のことを考えた。その上、小作人は地主に何割かの米を取られるのだ。だから、天災でも来ると真っ先に飢え、逃民となってさまよう乞食になったのだ。小作人はその一生を、領主と地主の贅沢な生活のために、泥田を這いまわって懸命に働きながら死んでいく。
 今も少しも変ったところはない。
 こんな不合理な制度は早く潰してしまえ! 百姓も働いただけの収入が得られる社会に変えなければ、と、孝夫は考えていた。
 ”本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に”と、言われた酒田の本間家は田畑一七八四町歩、山林二九四町歩で日本一の地主だという。
 佳子はとうとう母親たちから離れて孝夫のそばに来て座った。
 「毎年のことじゃケン、先祖の決めたことは子孫が受け継ぐもんタイ」
 父は佳子の動揺している顔に、(あきら)めたように言った。
 「出すのはまだあるよ、お父さん、供出がね」と、つけたすように孝夫が言った。

 戦時中にできた法律は厳然と生きている。供出は米を強制的に一定価格で国が買い取る仕組みである。安い価格だから、急騰(きゅうとう)する物価のなかで喜ぶ者は誰一人いない。
 政府は(たま)りかねて、十一月十七日に一石(百五十キロ)の価格を九十二円五十銭から百五十円に引き上げ、肥料、農具、衣料も特別に支給することで確保しようとした。
 それでも、翌年一月十日現在でたったの二十八・一%の達成率にすぎなかった。
 その供出米を頼りに配給制度が作られていた。一定量ずつ消費者に売る仕組みで配給手帳でしか買えない。供出米が少なければ、当然配給手帳があっても遅配欠配が起こる。それでなくても、当時の日本は米の絶対量が足りなかった。
 松村農相は農地改革に乗り出した。
 不在地主の小作地を、十一月十六日の閣議に三町歩、のちには一町歩として提出した。
 田は一反当たり七百二十七円ということであった。
 こうして、十一月二十九日に公布された。
 日本一の本間家もこの農地改革によって一町歩に解体されていくことだろう。

 「おばさん、配給米はちゃんときている?」
 「それが遅れるようになったとよ」
 「そんなら困るでしょう」
 「困ったことで……」
 一人一日三合であった配給米が、朝鮮や台湾からの米も来なくなって、この七月からは二・一合に減らされている。
 遅配欠配は常習化されつつあった。
 栄養失調のため、十月十一日に東京高等学校教授(現東京大学)亀尾英四郎先生の死亡記事が載ったのは、ほんの数日前のように孝夫には思えた。
 いよいよ、来年はもっとひどい食糧難に襲われるだろうと不安の声が誰からともなく聞かれるようになっていた。
 誰にも食い止めることができないことだから、じっと台風が襲うのを待つより仕方がないのだ。飢えて死ぬか生きるかの。



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