次郎柿は生きていた

第一章 ~虚脱から若者へ~ (1)



 森村孝夫(たかお)は昭和二十年九月三日に、何の前触れもなく戦争から村に帰ってきた。
 彼の海軍の作業衣には、真夏のような暑さのすし詰めの列車で、煮しめられたように汚れ、臭っていた。
 長瀬(ながせ)駅のプラットホームに降り立ったとき、ちっぽけな駅舎とそれを挟む塀の間の夾竹桃(きょうちくとう)の花がひどく懐かしく目に映った。
 孝夫のほかに誰も降りてくる者はいなかった。
 三方を山に囲まれ、西を大村湾にわずかに開く長瀬村は、雲ひとつない太陽に焼かれて、うだるような暑さの中に、ひっそりと静まりかえっていた。

 「ご苦労さんでした」
 駅員が無表情にそう言いながら切符を受け取り、孝夫がそこを通り過ぎると、改札口を閉める金属製の音がすぐ後ろでした。
 その音が“戦争”という扉を閉ざしたように孝夫には聞こえた。

 駅前の雑貨店から、左に折れた道を出ると、長瀬川につき当たる。
 五十メートルはあろうかと思われる川幅なのにいまだに橋はかかっていない。
 川底の飛び石をぴょんぴょんと渡って上がると、田んぼが見渡す限り広がっている。
 穂波の続く二キロばかり先に、柿の大樹に覆われた彼の家が見えた。
 出発した時と変わらない風景に安堵が込み上げてきて、しばらく、目の前に広がる景色を目に焼き付けるように、じっと(たたず)んでいた。
 どのくらいそうしていただろうか、黄金色の波間をうねりながら続く細い道を孝夫は我が家へ向かって歩き出した。
 歩くにつれ鬱蒼(うっそう)と茂った柿の大樹はいよいよ大きくなり、いつしか孝夫の足は速まっていた。かまびすしい蝉の声が、蒸し暑く横たわった中空から降り注いでくる。
 目尻にかかった汗を、手の甲でぬぐう。
 年月に擦り減った石段を見上げた孝夫は胸を高鳴らせ、南川内(なんだごうち)の道から疲れも忘れて一息に駆け上がっていた。広々と影を広げて大空に枝を張りめぐらす柿の大樹を見上げた。

 「いま帰ったよ……」と、言ううちに、目が霞み、涙があふれ落ちて頬を伝わった。
 蝉しぐれの柿の大樹は、濃緑の葉の茂みの中に大きくなりかけた実を見え隠れさせ、孝夫を迎えていた。
 孝夫は腕を伸ばし広げて抱きついた。
 柿の滑るような肌触りを感じながらゆっくりゆっくり()で続けた。
 撫でているうちに、八月十五日までの過酷な戦争が残像を残しながらも孝夫の頭からだんだんに消えていくのが感じられた。
 海軍での厳しい訓練と勉強、その間にp38(アメリカの戦闘機)から襲撃を受けて戦死した戦友の無残な姿などが記憶の中から遠のくと、下関で最後に別れを惜しんだ神谷君のきりっとした姿が浮かび出てきた。
 ひとつひとつの思い出がシャボン玉の泡のように次々にぷつぷつと、はじけて消えていくのを遠い時間の彼方に眺めている感じだった。
 こうして、はじめて、何からも束縛されず、思い通りに生きていける空間と確かな時間とが、そこに存在してきたような自由な気持ちがおぼろに感じられてきた。
 しかし、それでもやはり胸が詰まった。

 敗戦したことは国にとっては必然だったかもしれないが、孝夫にとっては予期したわけではないのでこうなる運命だったという他はない。
 「前もって知っていれば、良い道を選べる」誰かが言った言葉が妙に切ない。
 しかし、実際に起こってみなければ分かろうはずもないし、国が人の運命を勝手に、ねじ曲げてしまったのだから考えようもなかったのだ。
 だがそれが「占い師たち」が言う運命であったのかもしれない。運命とは自分ではどうにもならないことを言うのではないか。
 そして、今と同じような運命的なことが今後も訪れるかもしれないと漠然と考えたりもした。

 しばらくして、玄関に入り「ただいま!」と、声をかけた。
 しーんとしている。
 家は平屋で、玄関を障子で隔てた六畳、すぐ裏の炊事場、柿の木に面した方はすべてガラス戸の廊下になっていて、廊下の奥が二つの部屋になっていた。
 障子をあけて部屋を覗き込みながら大きな声でもう一度「ただいま!」と叫んでみたが返事がない。
 わずかな荷物を六畳の部屋に下ろすと、孝夫はもう一度庭に出た。
 南川内谷を挟む両側の山が奥に行くにしたがって狭まり、一キロばかり(さかのぼ)っていくと、濃緑の高い山がとおせんぼ(・・・・・)をするように谷の行く手をふさいでいる。
 その山の頂に空を突いた三つの巨岩がはるかに見える。野岳(のだけ)だ。

 山あいの谷の穏やかな坂道に沿って、稲田が、幾重にも重なりながら棚田を作り、目の前の、彼の家の田につながってくる。
 父母の姿は見あたらない。
 もう少し石垣のそばまで出て、わが家の田んぼを伸び上がってじっと見た。
 父母は背中に(かや)の束を日よけに乗せて田に()いつくばって草を取っているようだ。
 「おーい! お父さん! お母さん! 帰ってきたよ!」
 菅笠(すげがさ)を二人が一緒に上げ、一緒に指差している。そして、菅笠を取り、遠い田んぼからあぜ道に上がると、こけるように駆けて来る。
 母の頭にかぶった手拭がハタハタと揺れるのが見えていた。


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