第三章 ~青年団の人々と飢餓~ (3)




 青年団の会合は今月も開かれていた。
 中川さんと山田京子のその後を知る者は少ない。
 一時、燃えていた噂も消えて、近頃はもっぱらヤミの話に移っていた。
 「誰のうちは、だいぶヤミ米ば売って儲けているらしい」
 「あの家には、ものすごく良か着物のタンスに入りきらんごとあるゲナ」
 「煙草は芋デン、カンコロデン、持っていけば、いくらデン代えてくれるバイ」
 「町の人の土下座するバッテン、金では売りきらん、どんどん上がりよるとに」
 聞きようによっては、百姓の子の自慢話では、すまされぬことを喋りまくっている。
 配給を受けているものが聞いたら、打ち殺しかねぬことなのである。
 この夜は、肥料としての下肥(しもごえ)と堆肥についての講習会出席の件など二、三の話し合いがあった。
 素人百姓の孝夫には有難い講習なので、ぜひ出席したいと思った。
 団員も少し増えて二〇人になっている。こんな役に立つものが多くなったことも団員が増える原因であった。
 4Hクラブなどの研究グループができてきたのも頷ける。
 議長を務める中川さんも議事が少ないとみて「そろそろ、今晩はこれくらいにして……」と、終了しようとした。
 「あの……ちょっと話がしたいのですけど」佳子が緊張した声で遮った。
 「あっ、どうぞ、どうぞ」中川さんが膝を立て直した。
 「みなさんに考えてもらいたいことなんです」
 この美しい顔をした一番若い女が、何を言い出すのかと好奇の眼差しをかわいい唇に向けた。
 「私たち配給を受けている家庭は、今、飢えに苦しんでいます。青年団で何か救っていただくような対策のようなものをお考えになっていらっしゃいませんでしょうか」
 ここにいる団員は、彼女を除けばみな百姓の子ばかりである。
 今までこんなことに関心がなかったと言えば嘘になるが逆の立場で見ていた感じで、俺たちは米を作って国に渡す方、あんたたちは国から買う方、あとは国の仕事と他人事のように切実感もなく眺める(・・・)ように配給過程を見ていたことは事実であった。
 その上に、この中には、遅配欠配で飢えに苦しむ者を利用して、豪華な着物を手に入れたり、ヤミ商人に法外な値段で売って大儲けしている者もいる。
 一歩、譲っても、町の人間が土下座して、すがりつく姿を冷笑して見ていた青年は多かった筈である。
 佳子の提案は、飢えに苦しむ者と、百姓などそうでない者との間にある、深い溝を照らし出したものであった。
 団長が中川さんに何事か耳打ちした。
 やがて、中川さんが向き直って部屋に下がっている古い柱時計に目を走らせた。
 「良い提案が出されましたが、今晩は時間がありません。次回に、是非じっくり話し合いたいと思います」と、あっけなく終了を告げた。
 団長が混乱を予想して避けたのかもしれないと、孝夫は思った。
 しかし、佳子は、中川さんの「是非、じっくり話し合いたい」と、言う言葉に、嬉しそうに頬をほてらしていた。
 彼女にとっては本当に切実なことであった。今、すぐに、どんな具体的な方法があるかどうかを追及しようとしたのではなくて、佳子は縄にもすがりたい気持ちの発言であった。


 長崎から早く帰っていた幸代が、芋の練ったくり飯やクジラの入った煮しめなどを用意していた。
 近頃の貧しい夕飯である。おばさんと佳子が加勢に来ていて一緒に食べていた。
 佳子が話し始めると、邪気がないから自然に食卓が明るくなる。
 「ねえ、おじさん。この間の青年団の会合のときさ」
 「うん」
 「うち、初めて発言したとよ」
 「ほう」
 「私たちは、飢えに苦しんでいますって」
 「うんうん、そして」
 「青年団に、何か対策でもなかですかって」
 「なかなかよかところに目をつけたナ」
 「だけど、今晩は時間のなかケン、この次のときにって」
 「そうか」
 みんなは食事をしながら聞いていた。
 「学生もね、腹の空いて勉強どころじゃなかって、欠席する者の多かとよ。お粥さんばかりじゃ、ぼーっとなって集中できんとさね」
 幸代が近頃の大学の模様をつられるように語ると、母が大きく頷いた。
 「佳子さんは何かよか考えのあると……」
 「ううん、言ったけど、思い当たらんとさ、おじさん」
 「なかなかナー」
 「なんか、ないかなあ」
 「青年団ではどうかなあとは思うバッテン」と、父が飲んでいた盃を置いた。
 佳子が眼をくりくり見開いて父を見た。
 「なになに、おじさん! 教えて!」
 「まあ、落ち着けさ、佳子さん。母さん! もう一本つけてくれんか」
 「おっかさん、こんな日はおまけタイナ、つけてやんなっせ」
 「じゃ、もうこれきりバイ」
 「うんうん、わかっとる」
 おばさんが母の代わりに燗をつけて母に渡した。
 父は二本目になると調子が変った。
 「八代将軍、徳川吉宗さんは偉かった。目安箱を作って城門の前に置いて訴状を受け付けた」
 「お父さん、もう酔っぱらっているの」
 「おじさん、詳しかね、吉宗さんがどうかしたの」
 「その吉宗さんがおっしゃった。米の取れない飢饉のときにゃ芋作れ。芋はどんなやせ地にもできるとさ」
 二人の娘たちは驚きの目を見張った。
 母はにやにやして聞いていたが「お父さんは浪花節が大好きタイ。フフフフ」と、笑っている。
 「村には、まだ、辺鄙(へんぴ)で誰もいかんところに原野のあるとぞ! そうタイ。人が目もくれん野原でん芋は育つバイ。かえって、そこの芋がホコホコしてうまかとタイナ」
 「うわ! おじさん!」
 「村の所有だったら只でよし、誰かのものなら只みたいに安く貸してもらえばよしナ。青年団がせんならせんでよし。そのときは、ここのみんなで作ればよかことじゃケン」
 「おじさん! うれしか!」
 佳子の顔がたちまち輝き手を叩いて喜んだ。
 「まあ、一応、提案ばしてみるタイ」
 「はい、出してみます!」
 孝夫はいつものように黙り込んで箸を動かしているだけであった。


 次の会合が開かれた。
 佳子は、もう一度提案し、自分の今の状態をできるだけ詳しく、お願いするように説明した。
 しかし、団員からは何の反応もなく、却って白々しい眼が向けられただけであった。
 佳子は、崩れるように座ってうなだれた。
 ところが、孝夫が何を思ったのか、急に立ち上がっていた。
 佳子はそれを見て、益々うなだれた。
 ――この間、夕飯の時に話をしたときだって、兄ちゃんは無関心に一言も口を利かなかった。無口すぎるのよ。無理して何を言うつもりか知らないけど、馬鹿みたいに私と同じことを繰り返しても駄目なものは駄目なのよ。私に教えるときの数学とは違うんだから。言っても理解できる人たちじゃないのよ。わたしとは全然立場の違う人たちだよ! 兄ちゃん! 止めて!――  彼女は心の中で腹立たしく思っていた。
 「僕の作っている田は少ないし、しかも去年の収穫は三割少なかったのです。この減収は、雨と台風に叩かれたのと、この間の講習会にもありましたが、地力の低下であることは皆さんと同じです。供出も強制の方も出しました。おかげで九月、十月の米は全くありません。ですから、今からは芋を食べ、カンコロを食べ南瓜を食べて忍ぶしかありません。配給を受けている家庭と同じ立場になっているのです。しかし、配給家庭と違うのは、芋のような副食物を作っていることです。これらを食べていけば何とか生きられ死ぬようなことはありません。配給家庭にはこれらがないのです」
 団員の中にも、小作人は多かった。米の瑞境期になると、孝夫の家のように八、九、十月に困る農家が多かった。
 孝夫は話し続けた。
 「だから、藤田さんのように配給だけで食べている家は大変なんです」
 孝夫は、だんだん気持ちが高揚してくるのを感じた。
 「正常に配給米が支給されても、一日一人、二、一合では、お粥を(すす)るのが、やっとだと思います。東京の高等学校(東大)の教授が飢えのために亡くなったと新聞に載っていました。正直に配給米だけで過ごしたから栄養失調で亡くなったのです。この五月に、“米よこせ”食糧メーデが東京で行われました。なんとそれに二十五万人もの人が参加したそうです。この動きは全国各地で起こっています。食糧がないということは、これほど切迫した問題なのです。ですから、政治問題化することは間違いありません」
 なんだ配給米から政治問題か、と、みんなは妙な顔をして聞いている。
 「しかし、政府がいくら頑張ってもおいそれと片付いて、十分食べられようになるわけがありません。米の絶対量が足りないからです。アメリカに四三五万トンの緊急輸入を頼んだのに、たった六〇万トンしか送ってくれませんでした。アメリカは日本に苦しむだけ苦しめと、みせしめ(・・・・)をしているのでしようか。わたしたちのような一般国民がアメリカに戦争を仕掛けたわけではありません。私たちは一部の軍国主義者に踊らされただけなのです」
 「そうだ!」
 「畜生! 俺たちは踊らされたんだ!」
 「そうだ! そうだ! そうだ!」
 みんなが立ち上がらんばかりにして叫び、その声が部屋中に響いた。
 「話は、変わりますが、聞くところによりますと、配給を受けている家では、腹には代えられないと箪笥の底の衣類を持ってきて、農家に土下座して食べ物を頼んでいるそうです。なかには、この飢えた家庭を利用してヤミで売り、大儲けしている人までいるそうです」
 孝夫がそう言った瞬間に一座はし~んと、静まりかえった。
 ヤミをやっていると噂の園山という二七、八歳の団員が髭面をもたげた。
 園山の彫りの深い顔はヤクザのようなニヒルな感じを人に与え、ドスの利いた声がいつも団員を威圧するように聞こえた。
 「議長!」と、彼が手を挙げた。
 「森村君! 米の配給がどうの、供出がどうのと言うがね、大体、こんなもの自体がおかしいのだ。戦争の遺物なんだ。こんなものを作って国民を統制して、やれ! 兵隊さんありがとう、欲しがりません勝つまではか、馬鹿馬鹿しい。冗談じゃなかバイ! 経済というのはだな、競争しながら自由に販売し、自由に買う。これが本筋なんだ。高かったら買い手がないから安くなる。モノがなくなれば買い手が多くなるから自然に高くなる。高くなれば、あれは儲かるぞということで、その品物を作ろうとする。すると作物が自然に多くなってくる。多くなれば安くせんと売れなくなるから安くなるっていう寸法だ。この循環は当然起こってくる。もう戦争は終わったんだ。経済の根本に戻るべきなんだ。考えてみろ! 法律でがんじがらめに縛りつけて、さぁ、米を作れ! さあ米を出せだと! 経済を無視した、こんな安い米価で、誰が出したくなるものか。われわれ百姓を働かせさえすればいいというのか。徳川時代じゃあるまいし。こんなだから、いつまでたっても俺たちは貧乏なんだ。農民がやる気がないから米は出ない。出ないから遅配欠配が起こる。当然のことなんだ。もっと農民が働く意欲が出るように、経済の自由化をやるべきなんだ、そうすりゃ米だって何だって、よし作るぞ! よし売った! よし買った! と、言うことになるんだ」
 彼には彼の自由経済の論理があり、ヤミ米を売る裏付けがあったのだ。
 みんなは、彼の論理がなんとなく正しいように思われだしてきた。孝夫は強力な論敵が現れたことに慌てた。
 問題が孝夫の考えていることと、だいぶ大きく違った方向に進んでしまった。
 団員の中には黙りこくって頭を垂れているものが多くなった。
 孝夫は、もう少し配給家庭とその救済の問題に取り組む必要があった。
 立ち往生しかけていた彼は、もう一度勇気を奮い起した。
 「僕の前置きが長すぎて誤解を生んでいるようです。青年団の設立の目的からも政治の問題は別に置いて考えたいのです。園山さんのおっしゃることは分かりますが、自由経済に変えるためには、法律を変えなければなりません。この法律を変えることは政治の問題です」
 彼は、考え考えここまで言った。
 ここで、経済の問題から離れて配給家庭に対する人道的立場の方向に持っていかなければならない。
 迷っていると、議長の中川さんが彼を助けるように、十分間の休憩を告げた。


 休憩はすぐ終わった。
 彼はぶっつけ本番だと思った。人を助けるのに議論も何もあるものかと思った。
 「せめて、丸木郷に住む配給家庭を我々の手で助けてあげられないかと考えているのです。米の方は無理でしようから、原野でもできる薩摩芋を考えてみました。芋は肥料もいらず自然に太るからです。もしそんな野原があれば開墾してみてはどうでしようか」
 団員の中から「そんな原っぱのあるか」「そんな暇があるか」「部落の中に配給家庭は何軒あるのか」と、言う声が上がり、顔を見合せて騒然となった。
 早速、園山が眼を怒らせて立ち上がった。
 「どこデン、畑になってしもうとるとに、そんな原野のある筈はなか!」
 「そりゃ、探してみれば、あるかもしれんタイ」
 彼に反感を持つ男が、すぐ小声でやり返し首をすくめた。
 彼がそっちの方にぎろりと眼を向けた。
 「ありゃせんだろうがあったとして、それを青年団に拓いて芋を作れということか! 冗談じゃなかバイ」語気を強めて髭面をゆがめた。
 部屋がシーンと殺伐な空気に包まれた。
 どうも、話が先回りされて逆転する。
 孝夫ははじめから団体としては無理かもしれないと考えていた。
 次善の策は、善意の団員の協力があればなんとかなると思っていた。
 「皆さん全員でこれをしましようと言うつもりはありません。そりゃ全員でしていただくに越したことはないのですが、できなければ、よし、やってみようとか、無理をすれば暇を作れる人とか、そういう善意に基づく奉仕で、出来ないだろうかと思っているのです。そうすることで、一人でも二人でも飢えに苦しむ人が救われたらと考えているのです。極端にいえば、死にかけた人間を何とか助けてあげたい、たったそれだけの気持ちです。川に溺れかけた人を知らん顔しないでほしいのです。手を差し伸べて何とか助けてあげたい、救ってあげたい、皆さんもそう思うでしよう。そうすることが人間の道だからです」
 孝夫は、知らず知らずのうちに熱弁を振っていた。
 みんなが深く頷いていた。
 もうこうなれば、団として取り上げる問題ではなくなってくる。
 しかし、しっかり訴えておかなければならないと孝夫は思っていた。
 頷いている奴がいるぞと思うと力を得た。
 「僕が云いたいのは、人間の善意に立って、せめて近くに住む同じ部落の受配家庭を僕たち百姓にできる芋作りで救ってあげようということです。もう一つの問題は、そんな原野があるかどうかです。案外見つかるかもしれません。僕も探しますから、みなさんも協力していただきたいと思います」
 ここで園山がしげしげと孝夫を見た。
 「君は善意、善意と言うがどうもおかしいナ。俺は供出や配給制度にはもちろん反対だよ、しかしだ。それを配給のようにやっていいかどうかだ。これは絶対責任問題に発展しかねないね。少し、考えが甘いのじゃないかね、法律は法律だからね。それをくぐるとヤミなんだから」
 彼はそう言うと、長身の体を孝夫に向けてにやりと笑った。
 孝夫は顔をしかめて手を握り締めた。
「確かに、あなたの言う通りかもしれません。これは配給制度を破ることになるでのでしようか。しかし、人が死んでいくことを座視することはできません! 東京では、ある軍需物資の詰まった倉庫の開放を迫り、ついに開けさせて食べさせたという事例があります。僕は法律を犯したいとは思っておりません。だが、法律で縛ることで多くの人間を殺すことは許せません。僕は村長にも話すつもりです。もし、これくらいのことが許されないというのなら、配給家庭を呼び集め、村長を糾弾します。ヤミ売買をするのとはわけが違います。多くのことはできませんが、人道的にただ救ってあげたいと思っているだけです。村長だって目をつぶるべきです。青年団にも迷惑はかけません。丸木郷青年団が決議しなければよいのです。しかし、皆さんの協力をお願いします。このことで、何か問題が起こったら責任はすべて僕がかぶります。この間、名前は言えませんが、部落の女性が小さな子供を道ずれに僕の家の近くで自殺しようとしたのです。食糧に換える衣類もなくなり、頼んで回っても芋ひとつ買えず疲れ果ててしまったのです。飢えは僕たちの部落にも襲いかかっています。本当に、一人でも二人でも救ってあげようではありませんか!」
 佳子がほろほろと、涙を落していた。
 「森村君、君の真意はわかった。いくらか問題点はあるかもしれんが、君のヒューマニズムには、反論する理由はなくなった。ただ、ヤミ、闇屋と言わんでほしい。俺はこれでも、私大だが経済を出ている。近い将来、俺の言った自由経済の時代が必ず来る。このことを忘れんでくれよな。それにしても、君のヒューマニズムはほんなもんだ! あきれたよ。青年団の中にこんな人間がいたんだ。よくわかったぞ!」
 「僕もあなたのおっしゃる自由経済に早くなってほしいと思います。だけど、もう少し豊かになればと思います。今は最低の地獄に見えて仕方がないんです」
 佳子は人道主義の正義感にあふれた孝夫の顔を、まじまじと見つめていた。
 その顔は、時が経つにつれて、首の付け根まで紅く染まってきた。
 孝夫は疲れたように静かに座り「すみませんでした」と、中川さんに軽く頭を下げ眼を閉じた。
 座はいつまでも静まりかえり時間だけが過ぎていった。
 コオロギの鳴き声が時々さびしく部屋に届いていた。
 「今晩は、これで打ち切らせていただきます」
 中川さんが吐息を洩らすように終りを告げた。



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