第一章 ~虚脱から若者へ~ (5)




 佳子は青年団に入った時から、その美貌でみんなの注目を集めていた。
 会議の最中にも男子団員の目が彼女に走っているのが見受けられた。
 彼女が何かの拍子に男子の一人に目をやると、彼はあわてて目を伏せた。
 彼等には、町育ちの垢抜けしているこの十六歳の少女が天女のように美しく見えていたに相違ない。

 谷山は北川内の中川さんの二軒隣の農家の十九歳になる青年である。
 彼は彼女を一目見てから思いこがれるようになってしまった。
 中川さんに夜バイに連れて行ってもらってから一層刺激されていた。
 彼は中川さんに、佳子への夜バイをなんとなく相談的に持ちかけてみた。
 「バカなことば言うもんじゃなか。町の女の子にそぎゃんことしてみろ、ロクなことはなかぞ! 止めとけ! 止めとけ! 話ば本人とした方がマシたい」
 中川さんは一言のもとにその話を断った。
 しかし、彼女と話すことなど思いもよらない彼は、隣の今西部落の二人を誘い、中川さんの真似をして夜バイに行くことにした。
 中川さんが一回目失敗していることを知っている彼は、先ず彼らと昼間に佳子の家に偵察に出かけた。
 家のある丘の雑木林に別の山道から登り、裏の炊事場から覗いて、裏木戸には錠前(じょうまえ)がないことを見届けた。
 その晩、三人は丘の雑木林に日が暮れてから登り、家の灯が消えるのを待った。
 時間が経つにつれてぼそぼそと語り合う彼らの足元から秋冷えが這い上がってきたが家の灯は、三時間たっても消えなかった。
 谷山が(しび)れを切らして
 「ちょっと見て来る」と、炊事場に忍び寄り、しめられている裏木戸を少し開けてみると、彼女は本を広げて無心に勉強していた。
 「勉強しよった」
 「まだ、するつもりじゃろか」
 「なんの、十二時までには寝るさ」
 「それにしてん! 冷えてきたな」
 野岳から吹き下ろす秋の夜風は待つ身にとっては冷たかった。
 それから間もなくして、漏れていた灯が消えた。
 「あと、ちょっとしてから行こか」
 半時間ばかりして、彼らは行動を起こした。
 谷山が先に立ち、炊事場に二人を待たせ、そこの水で手拭を濡らし裏木戸の溝にたらして、体が入るほど開けて内側に入っていった。懐中電灯を照らしてみるとすぐそこが部屋になっていて、さっき勉強していた小机が本を乗せたまま隅の方に押しやられ、そのそばの布団に彼女は横向きに寝ていた。
 蒲団が少し膨れて大きく見えていた。同じ布団に、佳子が暖かいからと、小さな体を折り曲げるようにしてババさんが寝ていたのである。
 あわて者の谷山は変だとも思わず、ババさんの頭の上の布団を持ち上げていた。
 寒気がしたババさんがふっと眼を覚まし
 「誰ナ、お前さんは?」と、寝とぼけた声を出した。
 びっくりしたのは谷山である。
 あわてて、木戸に体をぶっつけ、炊事場の金柄杓(かなひしゃく)をカランカランと蹴とばして「逃げろ!」と、叫んでいた。
 玄関のそばに寝ていたおばさんも柄杓(ひしゃく)の音に目を覚まし、庭に飛び出て「ドロボ!」と、大声で叫んでいた。

 翌朝、「うちに入っても何も盗る物なんかないのに」と、おばさんが笑うのでババさんも佳子も大笑いした。勿論、ババさんは犯人の顔を見たのだが見たというだけで何も覚えてはいなかった。
 これで第一幕は、泥棒呼ばわりされ逃げ帰って終わったのだが、谷山はあきらめていなかった。彼女の凛々しい美しさがやるせなかった。
 近寄りがたいその美しい体を()きむしり引っ剥(ひっぱ)いで、レイプしてでもおれの方に向かせるぞ、そうすればきっとおれを忘れられなくなる筈だと、短絡に思うようになっていた。
 この単純な谷山の話を、今西部落の二人の青年はにやにやしながら誘いに乗ってきた。
 毎夕、三人はわざわざ南川内まで来て、道脇の竹藪(たけやぶ)に隠れて、一人で歩いて来る佳子を襲うために待ち続けていた。
 この日、佳子は配給米を買いに駅前のオンゴ店に行き、帰りに孝夫の家に寄って話をしてから暮れかかった谷の道を、そう急ぐでもなく米の入った袋を()げて歩いてきていた。
 谷山ら三人は、野獣の心を(つの)らせながら今や遅しと待ち構えていた。

 丁度その頃、孝夫の妹の幸代が役場から帰ってきて玄関に立っていた。
 「あら、おばさんの財布(さいふ)だわ」
 「ありゃ、佳ちゃんが落したんだ。たった今だったから、追いつくかもしれん」
 孝夫は自転車に飛び乗ると谷の道を追いかけた。

 佳子は少し急な坂を登り切ると、道脇の石に腰を下ろし米袋も地面に置いて休んだ。
 竹藪の三人はすぐそこまで来た彼女が休んだのでそわそわと動き始めた。
 しばらく休んだ彼女は立ち上がり米袋を手にして歩き出すと歌を歌い始めた。

  おお ダニー・ボ―イ
  戦いがつづき
  お前が死んだなら
  谷間のバラも哀しみに
  色褪せて散るだろう
  ふたたび夏がめぐり来て
  牧場に花咲く時
  帰れよ 山のふるさとに
  おお ダニー・ボ―イ
  おお ダニー・ボ―イ 帰れよ

 アイルランド民謡を歌う彼女のソプラノが向かい合う山々にこだまし、高くなり低くなりして森閑とした谷間に心に沁み入る響きとなって流れ始めた。
 竹藪に近づくに従ってその歌声が彼らの心を覆うようになっていた。
 涙に濡れ打ちひしがれたような歌声は谷間のしじまに尽きぬ悲しみを誘うように低く哀れに聞こえた。
 一変して、喜びに打ち震える少女のメロディーは、愛のほとばしりに似て、スコットランド民謡の恋の歓喜を踊るように高く星空に響かせた。

  朝露光る 丘の道で
  出会いを誓った あの日のこと
  憶えているかい いまも君は
  いとしいアニー・ローリー
  美しい人よ

  風にゆれていた 金の巻き毛
  僕を見つめた 青い瞳
  光りのように 輝くきみ
  いとしいアニー・ローリー
  忘られぬひとよ

  夏の小道の 風のような
  きみのやさしい その声が
  目をとじれば 聞こえてくる
  いとしいアニー・ローリー
  愛する人よ

 竹藪に潜む三人は彼女が悲しみに沈み涙するように歌うときは思わず肩を寄せ合って顔をしかめていた。
 彼女が歓喜に浸る歌声を聴かせるときは目を見合わせて思わず笑い合っていた。
 彼らもまた新鮮で若々しく心踊る年頃であったのだ。
 その声に魅惑されとりこ(・・・)になった三人はいつの間にかハミングしていた。
 メロディーが心の琴線に触れて凶暴な心はどこかに消え失せ、妖精(ようせい)(いざな)われる様にハミングしていたのだった。
 孝夫が佳子がさっき上った坂道をあえいで自転車をこいでいるときに、歌声が聞こえ始めた。
 彼女は歌いながら彼らの前を知らずに通り過ぎていた。
 彼らのハミングは佳子の歌声に和して、だんだん高くなっていった。彼女は男たちのハミングにびっくりして歌うのをやめてしまった。
 「つづけんね、ほんなコテ、まいったバイ、上手ちゅうか、なんちゅうか、すごか!」谷山が隠れていた竹薮から顔を出して驚嘆の声を出した。
 彼らの顔には魅せられた目が輝いていた。谷山は笑顔で近寄り拍手した。あとの二人も我を忘れて拍手していた。
 「わぁ、びっくりした。だれもいないと思っていたのに……谷山さんたちが居たんだ、恥ずかしカ!」

 孝夫がこの時やっと追いついた。
 「佳ちゃん、駄目だよ。財布なんか落としちゃ」
 「あら……ほんとだ。どこに落ちてたぁ? 兄ちゃん」
 「玄関、玄関だよ」
 「ありゃそうだったの、ごめん、兄ちゃん」
 彼等はふたりがあまりに親しそうなのに驚かされた。
 「森村さん、藤田さんは親戚ですか」
 「いや……まあ、そんなところですかね」
 「そうだったんですか?」
 「谷山君たちはどうしてここに?」
 「はい、ちょっと、野暮用がありまして……」
 「……そうですか、じゃ、ごゆっくり。佳ちゃん、重かろう、持ってやるよ。それじゃ、みなさん……」
 谷間の佳子の家の灯は、南川内道からずっと山陰に隠れてどこにも見えなかった。
 谷山は二人の親しい言葉遣いや孝夫の思いやる心などから深い恋人同士に違いないと判断したのであった。
 星のまたたきが、山間の澄んだ秋の夜空に銀の粉をまぶした川の流れのように見えていた。
 谷山は初恋の終幕を星座にかみしめていた。



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