第五章 ~あんな時代はもう来ない~ (2)




 丸木郷の配給を受けている家庭の七人が柿の大樹の下に集まっていた。
 島村さんもタエコの手を引いて立っていた。
 佳子がみんなの前にやって来て頭を下げた。
 島村さんが嬉しそうに頭を下げて「おはようございます」と、この若い娘に挨拶した。
 みんなは驚いたように島村さんに(なら)った。
 「皆さんに一言、お話申しあげたいことがございます」
 島村さんが一歩踏み出して姿勢を正した。
 「実はここにある芋は、丸木郷青年団の皆さんによって出来たものです。ここにいらっしゃる藤田佳子さまは私たちの様な飢えに苦しむ人たちを救おうと青年団に呼びかけていただき、青年団の方々が薩摩芋畑を開墾し、ここに運んでくださいました」
 ここで島村さんはみんなを手招きして庭の先まで進み、野岳の巨岩を指差した。
 「ちょっとご覧になってください、あの大きな岩のところを開墾していただいたのですよ」
 「大変だっただろうなぁ、しかもここまで運ぶなんて、あの岩からでは一時間はかかるだろう。そんなだったら高く買ってもいいわよ」
 「ええ、そうしましよう! みんなで相談して高く買うことにしましょうよ。少しぐらい高くても飢えないで済むんですから」
 「ちょっと待ってください」
 佳子が進み出た。
 「私たちは売るために開墾したのではありません」
 みんなはぎょっとした顔になった。
 「これは皆さんにあげるために作ったのです」
 「うんまあ!」
 みんな顔を見合わせて驚いた。
 「だけど、少し相談したいことがあります。まだ、山のふもとに何十倍という芋が天日に(さら)されてそのまま置かれています 。このままにしておきますと腐る恐れがあります。ここまでは青年団の人が運びますから、その芋をカンコロにして貯蔵したいのです。そうすればみなさんはいつまでも食べられます。皆さんに、簡単な作業を手伝ったいただきたいのです」
 「どんな作業ですか」
 「芋を洗ったり、刻んだりしてカンコロづくりをしていただきたいのです」
 「芋を只でいただけるのだったらやろうじゃないの」
 「そうしましょう」
 「そうしよう」
 「何日間もかかると思いますが?」
 「何日かかろうとこれは女の仕事ですよね。今のお話を聞けば私たちも何かお手伝いをしなければ食べさせて貰えません。どうぞ、何なりとさせてください」
 「そうですよ、やらせてください」
 「やりましよう」
 みんなから自然に、盛り上がるような拍手が起きた。
 佳子は感激して涙をためて頭を下げていた。

 その日から孝夫の母やおばさんの手元を見ながら、みんなは芋を少し厚く刻み、紐に通してカンコロ作りを始めた。
 青年団の女子も来るようになり、毎日、十人ぐらいが賑やかに喋りながら天日に干している。
 「ありゃ、こりゃ作業場の狭か!」
 中川さんが見に来て孝夫に言った。
 「はい、私の家は六畳しかありません、せめて十畳ばかりあれば皆さんにこんなに窮屈な思いをかけずに済むのですが」
 「藤田佳子さんの家の後ろは丘になっとろ、あの辺にトタン葺きの小屋ば青年団で作ろう。大工になれたもんのおるケン、金はかからんバイ」
 「そりゃ助かります」
 五、六日したときにはトタン屋根の長屋のような小屋が出来ていた。
 この小屋が出来て、佳子もますます張り切っているようであった。
 ここに来る社宅の人は感謝の言葉の後「何ときれいなお嬢さんだろう」と、あまりに凛々しく美しい姿に振り返りながら噂し合って帰っていた。
 佳子は十八歳になっていた。気品のある白い顔に黒い髪が長く垂れ、背筋もすらっと伸び、日焼けしない肌は、少女から大人への初々しさがにじみ出て艶が光って見えた。
 二十二歳になった孝夫は、そんな彼女が誇らしくもあり、気恥ずかしくもあったりして、いつも少し離れて立っていた。

 ところが、佳子がここ二、三日、顔を見せなかった。
 佳子の母に誰もが心配そうに尋ねるのだが、はかばかしく答えてくれなかった。
 幸代が心配しておばさんの家に入っていった。
 「佳子さん、いる?」
 「はい」
 か細い声が聞こえた。
 幸代は構わず佳子が寝ている小さな部屋に入っていった。
 ババさんが傍で看病していた。
 佳子のあのふさふさしていた髪が薄くなっていた。
 それを見た幸代は、ピカ・ドンの夜の小学校の薄暗い校庭で見た阿鼻叫喚の地獄絵を思い出していた。
 何度尋ねても声にならないうめき声に、はっと目を上げてみると、頭は焼けて毛はなくどこに口があるのか鼻があるのか頬がパンパンに膨れて瞼さえ塞がりふらふらと立っていた人の姿がまるで今、見たように甦ったのであった。
 あの人は、その夜のうちに息を引きとったのだ。
 幸代はぞっとして言葉を失った。
 ピカ・ドンによって、佳子の頭の毛は少しずつ抜け落ちていたのだ。
 幸代は涙を浮かべて佳子の手をしっかり握った。
 幸代はババさんと佳子にやさしい言葉をかけると逃げるように家に帰ってきた。

 「どぎゃんじゃったね」
 孝夫が真剣な顔で聞いた。
 幸代は嘘を言うわけにいかなかった。
 「兄さん、佳子さんはピカ・ドンじゃった。もうピカ・ドンの落ちてから二年も経っとるケン、助かればよかバッテン」
 父は「助かった人はおるとナ? あぎゃん、よか娘ば死なせてなるものか」と、怒ったように母を見て言った。
 「ほんなコテ、絶対助かってほしか、病院には掛かっているじゃろな」
 「おばさんと一緒にお前も病院に行ってこんな」
 「はい、行ってきますケン」
 幸代はもう何日も持つまいと考えていた。
 孝夫は幸代の沈んだ顔を見ながら「俺も見舞いに行って来るよ」と、言って立ち上がった。

 孝夫が部屋に入っていくとババさんがあわてて、お茶を入れるために炊事場にごそごそと行ってしまった。
 「おい! 佳ちゃん、気分はどぎゃんナ」孝夫が布団を()ぐって言った。
 すると、佳子がいきなり孝夫の頬に接吻した。
 「兄ちゃん、確かめたよ」
 孝夫は最初戸惑ったが「うん」と、大きく頷くと
 「俺は何も言わんかったがずっと好きだった。愛していたんだ。よし、俺もお前の額に確認するぞ」と、言うと、長く強く接吻した。
 「お前の病気が治ったら、ほんとの接吻をする、いいな!」
 佳子が頷いた。
 そのとき、ババさんがお茶を運んで部屋に入ってきた。

 それから四日たった。
 おばさんが朝早く森村家に泣きながら走り込んできた。
 佳子は、朝の四時頃、永遠の眠りについたのであった。


 柿の大樹は、葉を一枚も着けず、寒々とした冬空に枝ばかり突っ張って、それでも、あくまで静かに立ちふさがっていた。
 孝夫は次郎柿の大きなやわ肌に顔を押しつけて泣いた。
 柿の大樹は微動だにせず、まるで佳子の死を知っているように孝夫の心を受け入れ孤高の姿で見下ろしていた。




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